泥舟と旅路【自由と風の国】1

自由と風の国

 旅立ちの始まりの日に、彼はただぼんやりと空を眺めていた。鳴り響く雷鳴。今までも、これからも自分たちを守護する神の光。腰に下げられたのは清廉な青。恨めしい、と幾度思ったことだろう。けれど結果は変わらない。たぶん、この心も変わらない。

 信じる神は一つだけ。けれど、それすらも疑わしくなってしまった。

 息苦しさに首をさする。かひゅっ、と喉が嫌な音を立てて、慌てて手を首から離した。

 苦しいなあ、と。やっとの思いで落とした独り言は酷くむなしかった。

 不意に、目が覚めた。ざわざわとした感覚に顔をしかめて、そうっとあたりを見回す。時刻は午前二時。とっぷりと暗くなった空は星と月だけが灯りだった。ゆらゆらと風に吹かれる背の低い草を踏みつけて、気のせいだろうか、と彼は濃い灰色の目を細めた。

 自由の国モンドに踏み入れてから少し経つ。日数にしておよそ一週間くらいだろう。特段代り映えのしない旅路に少しだけ残念に思ったが、何もないことはいいことだ、と思い直すことにする。

 夕食用に焚いていた火はとっくのとうに消火されていた。すっかり炭になった薪と、まだ焦げ付いただけの薪が混在して散らばっている。

 ざあっ、と風が吹いた。

 彼は小さくあくびをして、それから左腰に固定した神の目をそっと一撫でする。清廉な青さを称えた目は、さわさわと風の流れに呼応するように輝きを放っていた。

 これも、神の思し召し、というやつだろうか。

 まだ眠気は残るが、彼は適当に荷物をまとめて野営地を後にした。丘の向こうにはモンド城がそびえている。白壁に囲まれた城はとても立派だ。せっかくだから、あそこにもちゃんと寄っていこう、と密かに決意しつつ、てくてくと歩を進めた。

 風が吹いている。

 ざわざわとした胸の違和感はぬぐえない。

 水の目は変わらずだ。

 濃い灰色の目が人影をとらえた。ぽつぽつと生えた木々のうちの一つ、杉の木の下で蹲っている。何かあったのだろうか、と彼は首をかしげて、それからその人影に向かって歩を進めた。

 草木も眠る午前二時。周囲は酷く静かだったが、不思議と不気味さは感じられなかった。龍災も収束した後のモンドは平和そのものと言っていい。爪痕こそ残るものの、自由の国の人々は逞しかった。

 さくり、さくり。背の低い草を踏みつける音が聞こえたらしく、人影はこちらを向いた。顔は真っ青で、とても普通の状態には思えなかった。

 ざわざわとした感覚が増す。

 水の目がわずかに熱を帯びた気がした。

 茶色の髪は外はねしており、器用に編み込みが施されている。来ている衣服は見慣れないものだ。モンドのものでも、璃月のものでも、スメールのものでも、もちろん稲妻のものでもない、異国の服装だと推測できる。端正な顔立ちであると推測できるものの、真っ青な顔色のおかげで台無しだ。それでいて、緑色の目は警戒の色を宿しているのだから信じられない、と彼は内心で感心していた。存外只者ではないのかも、とちょっとだけわくわくした気持ちを抑える。

「こんばんは、尊敬できる旅人さん」

 西風騎士団のマニュアルではこうだったはずだ。なかなか素敵な言い回しだと、彼は特にこの言い回しを気に入っていた。

 蹲っていた男性は訝しむように緑色の目を彼に向けて、それから、こんばんはあ、と比較的元気よく返した。

「こんなところで……」

 そう聞こうとして、言葉を止めた。顔色の悪い青年は油断なくこちらを見定めている。訳を聞いても答えようとはしないだろう、と彼は言葉を飲み込んだ。代わりに、水はいるか、と水筒を取り出す。

「あはは、流石に遠慮しておこうかなあ」

「……稲妻には、旅は道連れ世は情け、という言葉がある。どうせだから受け取っておけ。ほら、何も入ってない」

 水筒から掌に少しの水を出し、飲み干して見せる。青年はきょとんとした表情を浮かべて、それから小さく笑った。そこまでされたら断る理由もないなあ。声のトーンは軽い。ひとまず対応は間違えなかったらしい。ほっとして、彼も青年の隣に腰を落とした。

「初めまして、尊敬できる旅人さん。俺は晴和、冒険者だ……一応」

「断言できないのかあ」

「冒険者協会に登録はしているが、冒険らしい冒険をしているかと言われると、微妙でな」

 素直に答えれば、愉快そうに青年は笑った。変わり者、というところかなあ。懐かしむような響きに今度は晴和が首をかしげて、そんなところかな、と肯定だけ返した。

 青年の顔をもう一度見てみる。少しだけだが、血色が戻っていた。よかった、と肩を落とす。知らず知らずのうちに緊張していたらしく、少しだけ肩がこわばっていたことに気づいた。

 双方口を開かないまま数分が過ぎる。どことなく気まずさを感じて、晴和は青年に背を向けて横になった。困惑した空気を背中越しに感じて、ゆっくりと瞼を閉じる。

「俺はもう寝るから」

「……ええー、警戒心とか無いのかなあ。少なくとも、俺は君にとって警戒するべき人間だと思うんだけど?」

「さっきまで真っ青な顔してたのに言われてもな……」

「わはは!それはそうだなあ。一本取られてしまったかなあ」

 何が楽しいのか、青年は目を細めて豪快に笑った。心底面白い、といった様子に、しかたなく一度横になった身体を起こした。緑色の目は月光を反射してきらきらと輝いている。きれいだな、とぼんやりと思った。

 とはいえ青年の指摘ももっともだ。晴和がただの冒険者であったのなら、道理である。そうっと水の目にふれる。清廉な光を浮かべて、すました顔で腰に固定された「目」に目を細めた。これがあるから、大丈夫。口には出さず、代わりに小さく笑みを浮かべた。

「これでも強いんだ」

 もう一度ごろんと横になる。今度は顔を上に向けて、きらきらと瞬く星を視界に収めた。空気が澄んでいて、心地がいい。

 ふと、こうして隣に誰かいる状態で一夜を過ごすのは久しぶりだなと思い出した。それがなんだかくすぐったいような、それでいて嬉しいような、そんな不思議な心地になって、照れ隠しをするように目を閉じた。

 おやすみ、と穏やかな声が落ちる。小さくおやすみ、と返せば、隣で同じく寝転がった気配がした。

 意識が薄れていく。

 星の輝きが遠ざかっていく。

 頬にあたる自由の風を感じて、ただ何となく口角を上げて眠りについた。

 意外なことに、朝になっても青年は隣で寝息を立てていた。規則正しく上下する胸部に、体調は大丈夫らしいと心の底から安堵した。

 ぐっ、と両腕を空に突き出して伸びをする。朝の澄んだ空気が肺の奥まで満ちて、気分がいい、と晴和は立ち上がって軽く柔軟をした。眠気はすっきりと取れている。睡眠時間はいつもより少ないはずだが、熟睡はできていたらしい。

「おはよう」

「おはようございまああす!昨夜はどうも有難う、晴和さん」

 声が大きい、と思わず面食らって、目をぱちぱちと瞬かせる。青年は元気溌剌といった様子で、体調が悪かったことは微塵も感じさせなかった。それはそれで何よりである。晴和はモンド城の方向に目を向けて、一つ頷いた。

 受け入れてくれればそれでよし。断られるのであればそれまでだ。青年はぐっと伸びをして、昨夜の青い顔が嘘のようにふるまっている。

「あそこ、見えるか」

 あっち、と指をさす。石の壁に囲われた、この自由の国の中心地。青年は、立派なお城だなあ、と声を弾ませた。

「俺はあそこを目指すんだが、ついでだから、送ろうか」

「ほほう、それは有り難い話だなあ。ちょっと事情があって俺は今無一文だし、『ついでに』送ってくれるというのならそうしてもらえると助かる」

 言外に疑われているな、と晴和は内心で苦笑した。そんなものだろう。この草原で真夜中に真っ青な顔で蹲っていた方も怪しいものだが、何の得もないのに送り届けようとする自分も十分に不審者だ。

 いっそ、近くの騎士団員を呼んだ方がいいのかもしれないな、と思い至る。城門まで行けば門番がいるだろうし、彼らに後をお願いしてしまうのもありだろう。

「そうだな。俺は神の目もあるし、たった一人の護衛くらい朝飯前だ」

「……そうかあ。なら、どうぞよろしく!」

 差し出された右手を握る。名前は教えてくれるだろうか。モンド城に着く頃には知ることができているといいな、と素直にそう思った。

 木陰から出る。まだ日は東の空に浮かんでいるが、十分に暖かい。過ごしやすい気候と言えるだろう。ここからモンド城までは徒歩でおおよそ四時間ほど。距離はあるが、適度に休憩を挟めば苦労もしないだろう。

「そういえば、晴和さんはなんで冒険者になったのかなあ」

「……俺?」

「ほら、昨日、一応って付け加えていただろう?少しだけ気になってしまってなあ」

 にこにこと人好きしそうな笑みを浮かべる青年をじいっと見て、特に理由はないよ、と返した。

「冒険者協会に所属している人間はいろんな理由で所属している。俺は主にモラを稼ぐためで、主目的は観光だ」

「ほほう」

「本当に冒険を生業にしている者もいるが……俺の場合、危険を冒すのが好きってわけではないし。色々な場所に行って、色々なものを見る。必要経費でモラがかかるから、協会で依頼を受けてるだけだ」

 言い切ってしまえば、結構そっけない理由だな、と今更思う。自分でも意外なほどに冷淡な考え方だ。やはり、定期的に誰かと話すことは重要らしい。自分で自分の性質を見誤るとは笑えない。

 青年に目を向ける。一瞬だけ考え込むように表情を失くして、それからにぱっと笑顔を浮かべた。花咲くような笑顔、とはこのことを言うのだろう。華やぐようなそれに眩しさを覚えて、つい目を細める。

 さくさくと草原を進んでいく。とつとつと思い出したように二、三言話しては終わるような、短い話をしていた。そう代わり映えのない話を続けて、不意に青年の身体がわずかにこわばった。緑の目は一瞬だが別の方向を向いていたから、その方向へと顔を向ける。

「ああ……」

 思わず口から落胆の声がこぼれた。青年の態度もうなずける。

 何か怪しげな儀式をしているらしいヒルチャールと、アビスの魔術師たち。きゅっと眉間にしわが寄った。まだこちらに気付いた様子はないし、距離から見てもこのまま進めば気付かれることはないだろう。

 目指す方向にあるモンド城を見る。はあ、と憂鬱なため息がこぼれた。

「少し待っててくれ」

「……無視しちゃダメ?」

「駄目、ではないが……」

 街道から少し外れた位置に陣取る怪物たちをにらむ。何かの拍子でこちらの方にずれてこられてはたまらない。西風騎士団には手練れもいるとはいえ、石ころは取り除いておくに限るだろう。

 別に、晴和の仕事ではない。依頼を受けているわけでもない。その上で、彼はそうすることを選び続けてきた。言い訳のようなもので、お礼のようなもの。自己満足に分類されるその行為を、彼はいつまでたってもやめることができなかった。

「うん、君はここで待っててくれ。多分、すぐ終わる」

 アビスの魔術師の操る元素は火。幸いなことに、水元素と相性がいい。バリアを張られたところですぐにはがせるだろう。

「えっ、いやいや、多勢に無勢って言葉知って――あー、行っちゃった……」

 あーあ、といった様子に口元が緩む。何ともおかしな青年である。

 加速して、長柄槍をつかむ。急接近に流石に怪物たちも招かれざる客の存在に気付いたらしい。ぎゃあ、ぎゃあ、と耳障りな音を拾う。顔をしかめて、群がろうとする怪物たちを薙ぎ払った。アビスの魔術師は、と姿を追えば、火元素のバリアをまとって杖を振り回しているのが目に入った。

 はっ、と鼻で笑う。穂先に水元素を集めて、そのまま勢いよく突進した。

「水槍、盾を穿て!」

 ぴしり、と赤い膜にひびが入った。

「ギャッ」

 穂先が膜を貫通し、怪物の腹をかすめる。にいっと口角を上げて、飛び散った水元素を刃の周囲にまとう。

 無骨な槍は水の刃を持った薙刀に見えることだろう。水元素のみで武器を象ることはできずとも、大本があればたやすい。

「水刃、絶てぬもの無し……!」

 大きく振るわれた刃は、いっそ呆気なく感じるほどにあっさりと怪物の胴体を両断した。ぎゃあ、ぎゃあ、と怪物の悲鳴が鼓膜を打つ。うるさいな、と左足を軸に方向を変え、水の刃を膨らませて怪物たちを切っていった。

 数度、刃を振るえば事足りた。実にあっけないことである。これであれば故郷の野伏どもの方が余程手ごわいだろう。

 あの青年は、と街道の方に目を向ける。そこで初めて異常に気づいた。

 青年の背丈は高い方で、恐らくトーマと同じくらいの背丈はあるだろう。長身の彼の姿が見えないのは流石におかしい。かと言って、何も言わずに姿をくらませたとも考え難かった。見たところ彼は丸腰だったし、ああいう怪物と渡り合える様子でもなかった。ここにアビスの怪物がいたのを目にした以上、大人しく待っているのが賢い選択だろう。

 それではなぜ姿が見えないのか。例えば、蹲っていたとしたら――昨夜のように。

 慌てて青年のいる方向へ走る。案の定といえばいいのか、真っ青な顔で青年が蹲っているのが目に入った。

「だい……じょうぶ、ではない、よな。どうしよう、とにかくモンド城に……いや、時間が……」

 どうしよう。まず最良なのはモンド城に運び込むことだろう。あそこの聖堂に行けば、まともな治療が受けられる。もしかすれば、祈祷牧師であるバーバラの治療を受けられるかもしれない。

 とはいえ、ここからモンド城まで二時間は歩く。自分が持っているのは水の目だが、あいにくと治療は不得手だ。それも、外傷が何とか治療できる程度。明らかに体調を崩している彼にはどうしようもないだろう。

 うん、と彼は一つ頷いて空っぽになった水筒を取り出した。周囲から水元素をくみ上げて、とぽとぽと水筒に注いでいく。

「水は飲めるか」

 ふっ、ふっ、と短い呼吸に焦りだけが募っていく。差し出した水筒が受け取られず、どうしようどうしようとうろたえているうちに、うっ、とえずく音が耳に入った。

 少し酸っぱいにおい。胃の中にはろくに内容物もなく、無理やりに胃液を吐き出しているような有様らしい。青い顔は単純に体調不良というわけではなさそうで、晴和は街道のすぐ横にぶちまけられた吐しゃ物を呆然と見つめていた。

 いや、呆けている場合ではないな、と辺りを見回す。少し距離があるとはいえ、モンド城の近くといえば近くだ。徒歩二時間かかるが。誰かいないものか――ときょろきょろと辺りを見回した。

 いるわけもない、と晴和は諦めて、ひとまず青年の背をさすってやることにする。悲しいことに晴和は今の今まで健康そのもので、こういった状態の人間への対処は慣れていなかった。

 おえっ、と口から吐しゃ物が地面に落ちる。きつそうだ、と思わず表情を陰らせた。青年は吐ききったらしく、大きく息を吸って、それから苦しそうに、けれど気を遣わせまいと笑顔で、水をもらえるかなあ、と掠れた声で言った。

 どうぞ、と水筒を差し出して、ついでに青年の両手に水を流す。きょとん、と目を瞬かせてから、仕方なさそうに青年は困り笑いを浮かべた。

「申し訳ないなあ。はあ……」

「うん、寄り道するものじゃなかった。すまない。早くモンド城に向かうとしよう」

「そういう意味じゃないんだが……まあ、それもそうだなあ」

 急ぎつつ、けれど青年に負担はかけないように。心配そうに眉尻を下げた晴和に、青年はただ困り笑いを浮かべていただけだった。

 門番の騎士団員二人は真っ青な顔色をした青年を見て、ただ事ではないと判断したらしい。急ぎ代理団長に知らせてきます、と駆けだそうとするのを止めるのが大変だった。

 知らせてもいいのかもしれないが、大丈夫だとひたすらに止めようと青年が言葉を尽くしていたから、本当に大丈夫なのだろう。とりあえずは聖堂に向かおう、と青年に言えば、それじゃあよろしくお願いします、と律儀に返された。

「お二人がそういうのであれば……」

「何かあれば、遠慮なく我々西風騎士団を頼ってください」

「ありがとう。あ、そうだ」

 街道付近にいたアビスの怪物に関しては報告したほうがいいだろう。手短に様子を伝えれば、後で詳しくお話を伺うかもしれません、と門番は少し申し訳なさそうに言った。それが職務なのだから申し訳なさそうにする必要はないと思ったが、晴和は分かったと一つ頷くだけで終わらせた。念のため、冒険者協会にも伝えておいてもいいだろう。

「城のわりにオープンだなあ」

「五百年前はともかく、今はね。きな臭い噂話は……無いわけじゃないが、龍災も落ち着いたし、平和そのものといっていい」

 そうだったのかあ、とどこか他人事のように青年が相槌を打った。どうやらモンドの人間ではないらしい。顔立ちからすると稲妻の人間だろうか。それにしては、纏っている衣服が特徴的すぎる。稲妻の衣服ではない。かといって璃月のものでもなさそうだった。

 謎めいているな、と内心首を傾げつつ、別にいいか、と問題をひとまず置いておく。青年の顔をそっと覗き見れば、まだかなり青いままだった。表情だけは平常通りで、無理をしているのが丸わかりである。

 賑やかな空気と、穏やかな声。時折それなりの声量でのやり取りが耳につくが、どうせ昼間から元気に酒でも飲んでいるのだろう。自由の国の人々はめっぽう酒に強い。青年の目が不意に鹿狩りの方向へ泳いで、回復したらおごろうか、と声をかけた。

「いやいや、流石に申し訳なさすぎる。流石にそこまで厚顔無恥にはなれないなあ」

「……そうか」

 それは残念だ。慌てて顔の前で掌をひらひらとさせて断った青年は、小さく息を吐いた。お人好し過ぎるのも困りものだ――そんな声が聞こえてきそうな雰囲気を出して、困り笑いを浮かべた。緑色の目に浮かんでいた警戒の色は幾分か和らいでいる。

「でも、おいしそうだなあ。胃の中のものは全部出しちゃったし、何か食べるのもいいかもしれない」

「そうか、その冗談笑えないからやめた方がいいぞ」

「あ、やっぱり?」

「嘔吐するほどの不調をネタにするんじゃない。現在進行形のくせに」

 意外と大丈夫なんだけど、と目をそらした青年に嘆息した。これは重症である。ここまでかたくなだとは思わなかった。いや、正体不明の人物を何の疑いもなくモンド城まで送り届けている不審人物に対する反応としては適切なのか。晴和からすれば、単に青年がかたくなであるだけだと思いたいところである。

 石造りの階段を上がっていく。日はすでに天頂付近にまで登り、石造りの壁に囲われた階段にも日の光が差し込んでいた。ぽかぽかと暖かな陽気が心地いい。全体的に、モンドは過ごしやすい気候でうらやましい限りである。

 くあ、と大あくびをすれば、くすくすと隣で笑い声が聞こえた。冗談を言ったり、他人の仕草で笑ったりするだけの余裕はあるらしい。それは、いいことに違いない。

「ついた。この奥にあるのが聖堂。手前の像が風神を象った像」

「おお!この大きさのわりにきちんと手入れもされているみたいだなあ」

 よっぽど愛されているみたいだ、と楽しそうに青年が言った。どこか郷愁を感じさせる音に、そうだな、とだけ頷いた。立ち入る必要はない。気づいたとして、触れない方がいいことだって腐るほどある。

 風神バルバトスの像を見上げる。モンド内で最も巨大な神像であり、彼の風神が人々に愛されている証拠でもある。俗世の七執政が不在の国でありながら、ここまで愛されているというのも中々すごいことだと彼は思う。

 自由の国の神。何を想っているのだろうな、と思う。

 いきいきとした笑い声、楽しそうな賑わい。きらきらと時折目に触れる――神の目。

 神の考えることは分からない、と晴和は小さく頭を振った。考えても仕方のないことだ。

「あれ、入らないの?先に行っちゃいますよお!」

「……ああ、すまない」

 はっと顔を上げる。まだ顔色は良くないものの、振る舞いだけは元気いっぱいといった様子の青年が聖堂に続く階段の前で大きく手を振っていた。

 シスターに薬をもらえれば御の字だ、と晴和は考えて、外部の人間だが大丈夫かな、と今更な感想が脳裏によぎる。

「雪山の麓で育ったらしいとか言っておけばいいか……」

「何か言った?」

「何も」

 どうとでも言い訳できるだろう。第一、モンドの人は基本穏やかで優しい人が多いし、大丈夫に違いない。かなり雑な言い訳を考えつつ、聖堂の扉を開いた。

 荘厳な空気で満たされながら、安らぎも両立させたその場所は、ある意味では憩いの場所であり、ある意味では懺悔の場であると言えるだろう。

 全く別の神の治める土地で生まれ育った晴和には馴染みのない空気感に、僅かな戸惑いを覚える。後ろめたいことがあるわけではないが、どこか居づらさを感じた。

「シスターを呼んでくる。君は少しここで待っていてくれ」

 はあい、と気の抜けた返事を聞いて、聖堂奥にいるシスターの元へ向かう。生憎と晴和に医療の知識はない。少しでも多くの人間を診ている人間が状態を確認したほうがいいだろう。気持ち、急ぎ足になって奥で何やら話し込んでいたらしいシスターの元へと向かった。

 龍債も収まったのに、不安ね、という噂話が耳をかすめた。入り口付近にいる青年は聞いているのだろうかと振り返ったが、あまりに距離が遠い。とてもではないが聞こえないだろう。

「あら、どうしました?」

「シスター、忙しいところ申し訳ないが、病人を診てもらえるか。さっきも嘔吐したばかりで、顔色も悪い」

「そういうことでしたらすぐに。その方はもうここに?」

 入り口付近に視線を向ければ、シスターも察しがついたらしい。ああ、と一つ頷いて、薬箱を持ってきますねと一度奥に姿を消した。とりあえずこれで診てもらえれば大丈夫だろう。もし大丈夫でなければ、もう休息が癒してくれることを願うしかない。

 今度は落ち着いた歩調で青年の元に戻る。幾分か顔色は良くなっているように見えた。青年は苦笑を浮かべて、平気になってきてしまったなあ、と照れ隠しのように後頭部をかいた。

 少し遅れてシスターが青年の元に到着する。いくつかの問診をしてから、彼女は困ったように首をかしげていた。

「参ったわね……特にどこも悪いというわけではなさそうだけれど……」

「……なら、休むしかないか」

「そうなるわね。後は、栄養価の高いものを食べるとか、になるのかしら」

 力になれずごめんなさい、と頭を下げたシスターに大丈夫だと青年が返した。その顔は少々困ったような様子に見える。

「うんうん、どこも悪くないっていうのなら、原因に心当たりがあるから大丈夫!」

「そうなの?だったら、どうして……」

 不満そうなシスターに青年は眉尻を下げて、ごめんごめんと口先だけの詫びを口にした。

「ちょっとここに来る直前にいろいろあってなあ。詮索しないでもらえると助かるんだが」

 あはは、とごまかすように笑う。シスターは訝しむような表情を浮かべたが、早く良くなることを祈っています、と形式上の言葉を残して踵を返していった。どうやら無駄足を踏ませてしまったらしい、と申し訳なく思いつつ、青年の方を向いた。

 ほんの刹那、緑色の目に虚ろな色を映す。申し訳ないなあ、とこちらを向いて詫びの言葉を口にする頃にはすっかり人好きする様子に戻っていた。顔色も幾分かよくなっている。

「よくなったならいいんだが……」

「あはは、ここまで連れてきてくれてどうもありがとう!それじゃあ――」

 俺はここで。

 その言葉を拾う前に不思議と口が先に開いていた。

「ならば、『鹿狩り』に行こう。快気祝いだ」

 周囲から音が消えた気がした。

 どくどくと心臓の音がうるさい。久方ぶりの緊張に、嫌な汗がじわりと背中に滲んでいるのが分かる。

 だから人付き合いは苦手なのだった、と今更自分の性質を思い出した。

「――なら、お言葉に甘えさせていただくとしよう!おススメとかってあるのかなあ!」

「……あ」

 ふと、無性に安心してしまっている心に気づく。そうだな、と当たり障りのない接続詞を探して、会話を続ける。

 青年は立ち上がって、既に外に向かおうとつま先を出口方向に向けていた。それに気づいて、案内しよう、とちょっとだけ大股で歩いた。

 流石にお人好しが過ぎるだろう、と斑は訝しんだ。

「お待たせいたしました!にんじんとお肉のハニーソテー、お二つですね!」

 ほかほかと湯気を立てている料理は文句なしにおいしそうだ。添えられている花が一体何なのかがさっぱりわからないが、眼前で花ごと口に突っ込んでいる青年の様子を見る限り、食用らしい。多分。食用菊みたいなものだろう。たぶん。

 食べないのか、と不思議そうな視線が刺さってナイフを入れる。ぷつり、と切れ込みから肉汁があふれた。

 これだけ見ればおいそそうなんだけどなあ、と斑は内心で嘆息する。というかさっき吐いたばかりの人間にがっつり肉を差し出してくるのはいかがなものか。見たところ、人付き合いに慣れている様子もないし、特に意図はないのかもしれない。善意を装ったいやがらせ、ではないだろう。

 腹を括って肉片を口に放り込む。にんじんが肉の臭みをうまく打ち消しており、はちみつソースの甘味が噛むほどに広がって非常においしい。甘煮のようなものかと思ったが、甘さ自体はそれほど強いわけでもない。なるほどおすすめというだけはある、と思わず舌鼓を打って、そういえば吐き気がさっぱりやってこないことに気が付いた。

「うん、おいしいなあ!これ、寒い時期に食べたらもっとおいしそうだ」

「確かに。……本当に体調は良くなっていたようでよかった」

「あっ、いやがらせじゃなかったんだ?」

「注文した後に気づいた。ごめん……」

「ははは、気にしてないから大丈夫ですよお!それより、何から何まで面倒見てもらっている方が申し訳ないけどなあ?」

 ぱちりと灰色の目が瞬く。困惑の色を浮かべて、そうか、と短く言葉を落とした。どうやら理解はしていないらしい。いまいちこちらの意図が伝わり切らない感覚にもどかしさを覚える。

 この口数の少なさ、言葉足らずさ、あと理解能力のなさ。間違いなくずっと一人旅をしていたのだろう。それも、他人とほとんど関わる機会もないままに。それは何とも損な旅の仕方だなあ、と少々ずれたことを思って、童顔の青年の方に視線を向ける。

 そうこうしているうちに彼は完食したらしい。斑の皿も少し前に空っぽになっている。食事の間、晴和は清々しいほどの無言だった。斑が何か言えば相槌は打つが、それぐらいだ。

 それはそれで好都合ではあった。ボリュームのある料理だったため、食べきるのにもある程度の時間がかかる。食べている間に今までのことを簡単に整理することぐらいはできた。

(けど、現状、分からないことの方が多いし……どうしたものか。このまま晴和さんについて行ければ安全に各所を見て回れるとは思うけれど、向こうにとって俺を連れて歩くメリットはないからなあ。そもそも、ここまで親切にされる方が正直言って不自然だし。……様子を見る限り、根っからのお人好し、って線も有り得なくは、ないが。そう信じられるほど俺も『純粋』ではないしなあ?)

 そもそも出てくる固有名詞からして何もわからない。言語もまるで違う。注文時に後ろから覗いていたが、さっぱり読めなかった。その割に言語が通じているのが本当に謎である。都合はいいものの、ここの識字率が高かった場合少々厄介なことになる。できるだけ早くここの言語をマスターしなければならないな、と一つ指針を定めた。

「この後は、どうするんだ」

 はっとして顔を上げる。神妙な顔つきの青年と目が合った。灰色の目はどこまでも気遣うような色しか浮かんでいない。調子が狂う、とつい目をそらして、どうしようかなあ、と顔だけは何とか笑顔を浮かべて見せた。

「俺はもう少しここに滞在するつもりだ。ほら、あそこ」

 指で示された場所は民家らしき建物が密集しているところだった。あの辺にアパートを借りたんだ、と青年が小さく笑う。

「正門を正面にして、大通りの右側にある冒険者協会にもよく顔を出すと思う」

「……えっと?」

「いつでも訪ねてくれると嬉しい」

 そうきたか。斑は内心で頭を抱えた。どっちだ、と感情的な自分が往生際悪く迷っているが、理性的な自分は八割ほどの確信を持っている。どうやら、目の前の青年は善意百パーセントで自分を助けたらしい。

 きゅっと口角が上がっているものの、晴和の顔は若干ひきつっている。笑顔を浮かべるのに慣れていないのだろう、少々ほほえましさがある。濃い灰色の目に悪意はなく、もっと詳しく場所を教えた方がいいだろうと思ったらしい、ごそごそと地図を取り出し始めていた。

「それじゃあお言葉に甘えさせていただこうかなあ」

 嬉しそうに地図を広げて、こことここ、と冒険者協会と借りたアパートの位置を教えてくれる。鹿狩りからさほど距離はないらしく、これならば迷うこともなさそうだ、と安心した。

「うん、同じ稲妻人になんて早々会えないから、是非頼ってほしい。同郷のよしみ、といったところか」

 晴和がコップに注がれた水を口に含む。郷愁を感じさせる声音に、なるほどな、とようやく納得がいった。

 同郷のよしみとは、ある意味では分かりやすい理由だ。「モンド」と呼ばれるこの国において、「稲妻」という国の人間は少ないらしい。断定こそできないが、名前の響きからしても可能性は高いだろう。

「何から何まで有難う。困ったときは遠慮なく頼らせていただこう!」

 半分決まり文句のような言葉を吐いたものの、青年はただ嬉しそうにはにかんでいた。

 さて、と鹿狩りを離れて広場の噴水を目の前に思案する。これからどうしよう。とりあえず晴和と別れたはいいものの、全くのノープラン、何からやるべきか定まっていない。

 高い壁の上には聖堂と騎士団本部がある。後ろの大通りにはいくつかの商店と、冒険者協会があった。

 冒険者かあ、と斑は考える。悪くはないかもしれない。そもそも三毛縞斑という人間は旅好きでお祭り好きな人間だ。後から付け加えられたアイデンティティであったとしても、好きであるという事実は変わりない。

 知らないのなら、知らなければ。

 とりあえず無知を装って冒険者協会に行ってみよう、と正門方向に足を向ける。何となく周囲の店に立ち寄りたい気持ちになるが、とりあえずは協会で冒険者の詳細を聞いてからだ。

 というか、店も何も斑は現在無一文である。とっとと稼ぎ口を見つけなければ飢え死にの可能性だってある。流石にごめんこうむる、と内心でため息をついた。

 モンドの冒険者協会は簡素な作りで、恐らく協会の会員が受付などを行うと思われるカウンターと、事務所と思わしき建物で構成されていた。カウンターにはメイド服に似た衣服を着た女性が立っている。

「こんにちはあ!冒険者協会ってここであってるかなあ」

「こんにちは!モンド冒険者協会へようこそ!今日はご依頼ですか?」

 はきはきとした返答に安心しつつ、ここで依頼も出来るのかあ、とすかさず知識を頭に詰め込む。しばらくは気を張る日々が続きそうだ。

「いいや、実は、俺は田舎から出てきたばっかりだからなあ。冒険者協会ってどんなところか実際に聞いてみたくて」

 ついでにこれで字が書けないのもごまかせないだろうか。ごまかせると願いたい。受付の女性はぱっと笑顔を浮かべて、それではご説明しますね、と資料をカウンターに広げてくれた。やはりさっぱり読めず、一言一句聞き逃すまいと気合を入れる。

「そういうことでしたら喜んで!私は冒険者協会の受付をしているキャサリンと申します。以後お見知りおきを!」

 にこり、と人当たりのいい笑顔を浮かべて、それではご説明しますね、と資料を指さしながら説明してくれる。さっぱり読めないものの、口頭説明との対応である程度分かったりしないだろうか。少々厳しいか、と諦めて、目だけは資料を追うふりをして、聴覚に神経を集中させる。

「冒険者協会……冒険者ギルドは、新人冒険者さんが冒険者の生活に慣れるためのお手伝いをするとともに、ベテラン冒険者さんたちのより自由な冒険をサポートしています」

 キャサリンはそう言って一冊の手帳を取りだした。冒険者協会には主に二つの部門があります、と前置きをする。

「一つは冒険者。こちらは日々寄せられる口コミや依頼などを協会で集約し、所属している冒険者さんたちに冒険や依頼といった形で割り当てています。冒険者として所属するのであれば、面倒な作業を協会が行ってくれる、と認識していただければ大丈夫です」

 なるほどな、と頷く。もちろん依頼を達成していただければ報酬もお渡ししますよ、と元気な声が飛んで、冒険者協会の運営費用はこの依頼の仲介手数料で賄っているのだろうと推測する。

 ふんふんと頷けば、キャサリンはこちらが理解できたと判断したらしく、うんうんとなぜか彼女もうなずいた。

「もう一つは情報部です。こちらは通常依頼は受けません。冒険者さんたちが依頼をこなすための情報を提供するのがこちらの機関になります。調査員と整理員の二つのグループに分かれていまして、調査員が実際に現場で情報収集を、整理員が集められた情報を整理して冒険者さんたちに提供を行っています」

 冒険者協会の内部職員はこの情報部が該当するのだろうな、と認識する。恐らく事務処理を行っているのが整理員で、実地調査を行うのが調査員。そして冒険者に依頼という形で外部委託を行う――といった感じの仕組みのようだ。

 多少の制度の粗が気にならなくはないが、正直斑の常識は半分通用しなさそうであるし、そんなものなのだろうなという雑な認識でとりあえず済ませることにする。細かいところを気にしすぎても前に進めないだけだ。気には留めるが、こだわるのは下策だろう。

「もし興味があるのでしたら、とりあえず登録しておくのがおすすめですよ。特に義務も生じませんし、メリットの方が多いと思います。強いて言うなら、最初は多少地味な依頼が多いぐらいでしょうか」

「それ、デメリットになるかあ?」

「個人的な意見を述べさせていただくなら、そうではないと思います。ただ、やはり冒険者というと派手なイメージがあるもので……」

「ああ、そういう。ふーむ、分不相応なものを押し付けられる心配がないという点では安心できる話ではあるなあ」

 そうでしょうそうでしょう、とキャサリンが深くうなずく。意外とそういう類の人間は多いのかもしれない。

 斑は少しの間考えて、とりあえず加入しておこうと決断を下した。字も読めなければこの場所の常識すらわからない中、自分の身分を保証するためにはとりあえずどこかの団体に所属しておくのが最も楽な手段だと言えよう。

 戸籍制度があったら一発で詰みな気がしなくもないが、そこまで制度が整っていないかいきわたっていないことを祈るしかない。

「ちなみに、協会を抜けたいって時はどうすればいいのかなあ」

「脱退ですか?そうですね……」

 例えば都合により冒険者を続けられなくなったものもいるだろう。字面通りの冒険者であると仮定するのであれば、怪我や病を原因に引退、といったことだって考えられる。

「単純に冒険者を続けられなくなった場合、そのまま情報部に移動される方はそれなりにいらっしゃいますね。後は、普通にどこかで雇ってもらうとか……そもそも協会に所属することによる義務は発生しませんから、特に脱退処理をする必要はないと思います。強いて言えば、依頼の分配に不都合があるので申告はお願いしていますが」

「必要がない、ってことは、脱退処理そのものはあるって認識でいい?」

「はい、それで大丈夫です。ただ、あまりそういう方はいらっしゃいませんが……」

 あるにはあるらしい。そして、あまりいない、ということは全くいないというわけでもなさそうだ。それだけ分かれば十分である。困惑したような様子のキャサリンに満面の笑みを浮かべて、それなら冒険者として入りたい、と告げれば、彼女は分かりやすく顔を輝かせた。

「ありがとうございます!それではお名前を教えていただけますか?」

 一瞬、返答に詰まる。

 先ほど分かれた彼は何と名乗っていたか。単に晴和、とだけ名乗っていたはずだ。偽名を名乗るべきか、本名を名乗っていいものか。

 どうされましたか、と心配するような声に我に返る。ここに来てから言葉に詰まりすぎだ、と内心で頭を振った。

「俺は斑という。書かないといけないものってある?」

「いえ、大丈夫ですよ!あ、もしかして、字は……」

「はは……恥ずかしながら、あんまりいい出自ではないんだよなあ」

 なるようになるだろう、と読み書きができないことを告げれば、そうですね、とキャサリンは少しだけ考えるように顎に手を当てた。それから、よろしければこちらをどうぞ、と一冊の手帳と、数冊の絵本と思わしき本を手渡された。

「小さい方が冒険者手帳になります。冒険者としての心得が書いてあるのですが……もし余計なお世話でなければ、こちらを使って勉強してみてはいかがでしょう」

 ぱらぱらと中身を見た感じ、絵本で間違いないらしい。正真正銘幼児向けといったものから、恐らくある程度成長した子供が読むようなものが混じっている。

「おおっ、これは有り難いなあ!でも、なんで冒険者協会に絵本があるのかなあ。寄付とか?」

「ご推察の通りです。冒険者協会と言ってもある意味何でも屋みたいなところがありますからね」

 要は色々とあるらしい。そっかあ、と深入りすることはせずに、手帳と絵本を受け取る。色々とありがとう、と礼を述べれば、キャサリンはにこりと完璧な笑顔を浮かべて見せた。

「いえいえ。それでは冒険者生活、がんばってくださいね。星と深淵を目指せ!」

「星と深淵を目指せ!」

 おーっ、と二人して拳を振り上げて、そのまま協会を後にする。星と深淵を目指せって何だろうなあ、と今更なことを考えて、とりあえず正門近くのベンチに落ち着くことにした。

 きゅっと眉間に深く皺が刻まれる。普段から人好きするような笑顔を意図して浮かべている斑にしては非常に珍しい表情だろう。人の往来が少ないわけではなく、むしろ多いと言える量ではあるが、それでもそのような表情を浮かべてしまうのも無理はなかった。

 頭が痛い、と顔をしかめる。受け取った絵本のおかげで言語はおおよそ把握することができた。と、いうのも、それは斑も使う言語と非常に似通っていたからだ。

 文法や使用文字数は英語とほぼ共通。改行の際などにいくつかのルールが別途付随しているだけで、その使い方はほとんど変わらない。文字も見慣れない形というだけでアルファベットとの対応を覚えてしまえばすぐだった。

 不可解なことに、一度「読める」と認識さえしてしまえば、苦労することなくすらすらと読める。それこそ母語のように。英語からは読み取れるはずのないニュアンスまではっきりと読み取れる。

 理解不能にも程がある、と斑は大きくため息をついた。そうっと顔を上げて店先の看板を見れば、不自由なく認識できた。増してきた頭痛に内心で舌打ちを鳴らす。本当に理解が及ばない。そういうもの、と割り切れるほどお気楽な性格はしていなかった。

(そもそも……)

 意図的に直視しないようにしていた疑問がむくりと顔を出す。

 そもそも。

 どうして自分はこんなところにいるのだろう。

 ずきり、と頭痛が一層増した。考えるな、と体が拒否しているよう。

「――ダメだなあ。ひとまず後にするとしよう。多少の違和感こそ残るけど、これでまた吐いても困るし」

 ふう、とため込んでいた息を吐き出す。それだけで気分は多少マシになった。ここに来る直前のことから思考を切り離したことで頭痛も止んでいる。本当に嫌な話だ、と再度内心で嫌そうに悪態をついて、ベンチから立ち上がる。本はもう協会に戻してしまっていいだろう。あとは、自分でも受けられそうな依頼をいくつか受けて、金銭を得なければならない。

 アルバイトとかあればいいんだけど、と斑は周囲を軽く見渡す。右も左もわからない異国に放り出された感覚はどこか懐かしくて、これはこれで悪くはないんだよなあ、と楽しんでいる自分に苦笑を浮かべた。

 ぱらぱらと冒険者手帳を捲れば、冒険者としての心得――言い換えればサバイバルの心得から、依頼の受注に関して、テイワットと呼ばれるこの世界に散在する秘境や討伐対象の魔物に関してまでが詳細に記されていた。斑はこの討伐対象の魔物は避けつつ、採取系の依頼からこなしていくのがよさそうだ。

 どういう仕組みかはさっぱりわからないが、依頼は手帳に既に記されていた。毎日四つの依頼が割り振られ、達成したら冒険者協会の受付にもっていけばいいらしい。どんな仕組みで勝手に手帳が更新されるのかが気になるところではあるが、魔法のようなものなのかもしれない。晴和の操っていた水の刃を思い出して、そういうことにしておこう、ととりあえず疑問は置いておくことにする。

「ミントの採取、スイートフラワーの採取……採取すればいいものだけか。助かるなあ、俺はまだ武器も持ってないし――ふむ、当面の目標は服と護身具を整えるくらいの金銭を集めることになりそうだ」

 ようし、と気合を入れて立ち上がり、ふと左手に抱えた本の束を思い出す。先にこれを返してからにしよう、ともう一度協会に引き返した。

 ひい、ふう、みい、と声に出して再度確認する。

「よし、これでミントとスイートフラワーと蒲公英の種の採取依頼は完了だあ!」

 よいしょおっ、と特に重くもないが皮袋に突っ込んで立ち上がる。そういえば、と晴和の戦闘の様子を思い出して、首を傾げた。

 あの人、一体どこに武器を仕舞っていたのだろう。彼の武器は長柄槍だったはずだが、出会ったときや別れた時、どこにもそんなものは見当たらなかった。遠目で認識できた限りにはなるが、晴和の背丈と同じくらいの長さはあったはずだ。

「こう、ぬうっと出てきたよなあ、あれ……どうやってるんだろう?俺も出来ないかなあ。便利そうだもんなあ」

 駆けだした後ろ姿を思い出す。確かに出会ったときは槍なんて持っていなかったはずだ。怪物を見つけて、走り出した時に右腕を伸ばして、その先に槍があった。

 そう、腕を伸ばして掴む動作をしたときにはそこに槍はあったのだ。

 斑は手に持った皮袋を凝視して、できないかなあ、とぱっと手を離してみる。ぽすり、と間抜けな音を立てて皮袋が地表に落ちた。

 そう簡単にできる訳ないかあ、と思いつつ、やっぱりあれ便利そうだよなあ、と未練がましくもう一度挑戦してみる。皮袋を持ち上げて、手を離す。ぽすり、と間抜けな音。いや、手を離すという仕草がいけないのかもしれない。晴和が槍を握ったときは、そこに槍があるのが前提の動きだった。言い換えれば、腰に差した刀を抜刀するかのような自然な動作。

 それであれば、仕舞うような動作だったらいいのではないだろうか。こう、鞄に押し込むような。

「――あっ」

 するり、と皮袋が光の粒子を伴って姿を消した。思わずぽかんと口を開けてしまう。

 出来てしまった。意外なほどにあっけない。手には皮袋を仕舞った感覚が残っている。何となくぼんやりしてしまってから、ハッとして周囲を確認する。幸いなことに人影も気配もない。ほっと息を吐いて、今度は取り出す感覚で空をつかむ。

「おっと、と。はは、これじゃあ、本当に――」

 自嘲するような、諦めるような、乾いた笑いが零れ落ちた。そよそよと流れる風はどこまでも自由なようで、いっそのこと憎らしい。空気をつかむはずだった両手には、しっかりと皮袋の感触があった。

 ああ、本当に。

 これではまるで、現実ではないみたいだ――

秋水堂もの置き小屋

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